秦博士の追悼曾に際し「友人として一言述べよ」とのことでありますが、これは私にとつて洵に悲しき光榮であります。友人と申しても色々 あるが、然し、肝膽相照し、互に敬愛し合ふといふ友人は少ない。蓋し之は今に始まつた事ではなく、昔も今も同じことでありませう。人間に名譽心
とか、利害心とかいふ私心があると心からの友人は得難い。私にとつて眞に心からの友は秦佐八郎君でありました。この秦君の死は痛嘆至極であります。 私は秦君と頻々往來した譯でもなく、酒食も餘り共に致しません、世事に關する話の如きは、総てを通じて一割もありますまい。只學術を通じて話し
合つただけであります。淡々たる交友の間、自づから赤心相通じたのです。世俗に云ふつき合はなかつたので、逝去に際し普通の死亡通知を得て驚いた 次第であります。
私が秦君を織つたのは秦君が伯林でコツホ研究所へ入所される前に酵素の研究を僅かな期間に行はれてゐた時のことで、この仕事は秦君後來の研究に 相當役立つたことと思ひます。その後秦君が居られるのでエールリツヒの研究所を訪れました、その時は未だサルバルサン未完成の時で、研究の内容に
就いては何も聞きませんでしたが、エールリツヒ先生の研究方法、特に記録方法を秦君に學び大いに驚いたのであります。共同研究者と分擔し、精力を 集中し、沈思黙考、而して共同者の仕事を考へ更に仕事を進める、この事は秦君に教へられた最も大なるものでありました。
明治四十三年以來毎月同志が集まり、赤裸々に語り合ふ會があり、この會へ秦君はよく出席された。私は其の席上常に秦君と會ふを樂しみとして居りま した。永い交友に於て敬愛は一日も變らず、思切ったことを言ひ合ひ、烈しい意見の交換こそあつたが、人間的に不快な感を抱いた事は只の一度もあり
ません。要するに私の観た秦君は、努力の人であり、誠意の人であり、時を惜しみ、常識は發達し、聰明な人でありました。殊に學者的偏狭なく、 專門以外のことに能く通じて居られたのは、何時も感服させられたことであります。叉秦君は勝れた雄辯家であつて、大正三年の日本醫學曾の総會演説
は今に印象に残つて居ります。而も君はその雄辯を濫用しなかつたことは、飽く迄その人柄を思はせます。 老ひて愈々車輪の中心となり、學術的常識を發揮し、その智嚢を利しつつあるを観、私は國家社曾の爲め秦君の長生を願つて已まなかつたのであります。
然るにこの友今やなく、痛心このことであります。(十二月十日迫悼會式場にて)
(初出;医事衛生 9, 昭和14・1939年) |
解説;秦佐八郎(1873-1938)島根県美濃郡美都町茂村(現在の美都町)生まれ。第三高等学校医学部(現在の岡山大学医学部)に入学し、
1895年卒業1897年岡山県立病院助手、翌年、東京の伝染病研究所(所長:北里柴三郎博士)に入所。1907年ドイツ留学、ベルリンのコッホ研究所、
モアビット病院を経て、1909年フランクフルトの国立実験治療研究所で研究、1910年エールリッヒ博士と共に梅毒の特効薬サルバルサン606号を開発。
同年帰国。1912年医学博士号を取得。1914年伝染病研究所が文部省に移管された際、北里柴三郎と共に辞職し、北里研究所細菌・化学療法部長に就任
する。1918年同所理事。1920年慶應義塾大学細菌学教授兼務。1931年北里研究所副所長、1933年帝国学士院会員、1938年慶應義塾大学病院で病没、
享年65歳。 |
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