解説;著者の桂重鴻先生は、明治28年(1995)新潟県新発田市に生まれ、仙台の二高から東北帝国大学医学部を卒業、その後、台北医科大学、熊本医科大学教授を経て、昭和24年新潟医科大学教授(現第二内科)に就任、昭和35年に定年退官された。専門は内科学、特に化学療法、感染症。平成元年、94歳で逝去。なお、「お医者山脈」なる書は、医療関係者であった沢田白泉氏が、明治以降の著名医家の人脈について書いた本で、「杏雲堂山脈」の中に佐々木隆興が触れられている

カール・トーマス先生と佐々木隆興博士 (お医者山脈余話)

                            桂 重鴻

沢田白泉の「お医者山脈」を興味深く読んだ。また教えられるところも頗る多かった。よくこれだけの資料を整えられたものと敬服に堪えない。

市島継志会理事長から、この本に対する思い出や感想などがあったら書いてみないかというお奨めを受けた。このお奨めをいただいた時、ふと私の心に浮かんだのは、外国の学者の脳裏に映じた佐々木隆興博士の姿であった。その事をいまここに記してみたいと思う。この話は沢田白泉氏にも伝えようと思ったことがあったが、つい機を失してしまったことを残念に思う。

いまは東ドイツに入っているライプチヒ大学の生化学の教授に、カール・トーマスという先生がおられた。今から五、六年前に亡くなられたが、一九二六年から二八年にかけて、私が第一回のドイツ留学をしていた間に師事した先生がたのお一人である。トーマス先生の生化学教室には、当時五、六名の日本人留学生が研究を行なっていたが、その中に京都府大浅山内科の細田孟博士がいて、私は氏とただ二人で、小狭い一つの研究室に席を与えられていた。氏も私も、当時は同じく母校内科の助手であった。氏は帰朝後、京府大助教授、教授と進み、定年退官と共に名誉教授となり、今から数年前に他界された。

その細田博士と一緒に、ある夕、トーマス先生から日本飯のご馳走に与ったことがある。トーマス先生は当時四十五、六才であったと思うが、その前も後も引き続き独身で、教室の何階かに独居生活をしておられた。私たちがお招きを受けた時は、ご自分で飯を炊き料理を作って、心から温かく二人を歓待して下された。五十年前のこの時を回顧して、今は亡きトーマス先生と細田博士のことを憶うと、まことに感無量のものがある。

さて、ご馳走がすんで一休みをしたあと、トーマス先生はおもむろに一冊の日本語の論文を出して来て「これを訳して聞かせてくれ」といわれる。手にとってみると、それは佐々木隆興博士の書かれた十数頁の論文である。日本語ではあっても、一見極めて高遠な論文で、読んで直ちに理解出来るというものではなく、いわんや人様に諒解してもらえるように翻訳の出来そうなものでもない。二人とも大いにためらったが、その時ふと私の心に浮かんだことがある。一年ほど前、私がキール大学の生理学教室で勉強していた頃、同大学の植物学の教授から、京都帝大の、その時はまだ助教授であった木原均博士の論文を翻訳して欲しいという依頼を、同地の日本人会が受けた。当時、農林学専攻の北海道帝大理学部植原助教授がキールにいたが、「桂の方が植物学者ではないにしても、細胞には縁が近かろう」ということで、私が推薦されて教授を訪ねることになった。そして論文の内容は殆んどわからぬながら、教授の諒承のもとに、逐字的に直訳をして責を果たした。

この時のことを思い出して、同じ流儀でやればやれないことはないだろう。いわんや書いた人は医学者である。聴き手も医学者である。先生ご苦心の日本料理をご馳走になった手前もある。出来ないと逃げる手はあるまい。このように心に決めて「ではご満足いただけるかどうかわかりませんが、直訳を試みますから先生が判断して下さい」そう断って要請に応じた。訳しながら、時々先生の方を眺めると、先生は「よくわかっているから心配しないで続けてくれ」と言いながら厳粛な顔をしておられる。こんな状況で、途中休みも入れず殆んど二時間くらいぶっ通してどうやら任を果たした。

このあと、トーマス先生は「ブロフェッソル佐々木はエミール・フィッシャーの世界中で五人の高弟の一人である。君らも諒解したことと思うが、これは蛋白質の構造に関連をもつ非常に有力な仕事である。自分が特に敬服に堪えないのは、プロフェッソル佐々木は多忙な臨床家である(佐々木隆興博士は第三代目杏雲堂病院長)ことである。生化学専門の大家でさえなかなかやり得ないようなこれだけの仕事をやれる臨床家は、尋常一様の優れた頭脳の持主などというものではない。彼は実に大学者中の大学者というべき人であろう」そうトーマス先生は言って、讃嘆措く能わざるものがあった。

そして「自分もこのようた優れた論文を日本語で読むことが出来たらどんなによかろうかと思うし、読めないのが残念である。が然し、このたびは君らがいて翻訳してくれたので非常な幸いであった。本当にありがとう」そう言いながら固い握手をして下さった。キールで木原博士の論文を翻訳させられた場合にも、植物学の教授から同じようなことを言われたことを思い出す。

トーマス先生は、大学の定年退官後、ゲッチンゲンのマックス・プランク研究所の所長となられ、私が第一回ドイツ留学の三十年後、一九五八年に先生をゲッチンゲンにお訪ねした時には、硅肺の研究をしておられた。この時も先生は懇ろに私を遇して下され、スライドを用いながらいろいろご自分の研究のことを説明して下された。

私がゲッチンゲンを去る時には、トーマス先生はわざわざ私の宿まで訪ねて下され、ポーターが「車を呼びましょうか」というのを「いやそれはやめてくれ、汽車が出るまでに時間があるので、ゲッチンゲンの町を少し案内するっもりだから」と言って断られた。そして七十八歳のお年をも顧みず、また私が「自分で持ちますから」といくらお断りしても「君は僕の客人だ、それに自分はこの通り若くて力もあるのだから」といって、どうしても聞き入れず、私のスーツケースを持って歩いて下された。そして街を歩きながら大学者ローベルト・コッホ、大宰相ピスマルク、対数表のガウス、メルヘンのグリム兄弟、ガス燈のブンゼン、ベルトルド等の学者や政治家の住んでいた家を、おもてからだけではあるが、一つ一つていねいにみせて下された。

ベルトルドは医科関係以外の人々にはあるいは聞き慣れない名前であるかも知れないが、彼は次の事実に着目して今日の内分泌学の端緒を開いた人である。すなわち、若い雄鶏の睾丸を除去(去勢)すると、鶏冠や蹴爪が発育しない、「とき」を作らない、そして闘争性や雌鶏に対する愛情の行動が現われないといった、いわゆる二次的性的性格が発達しなくなる。しかるに同様に去勢した雄鶏に、他の雄鶏の睾丸を腹腔内に移植すると、移植を受けた雄鶏の二次的性的性格は正常と同じように発達する。このことにベルトルドが着目したのは一八四九年で、トーマス先生と私がゲッチンゲンの街を歩いた年に至るまで僅か一〇九年、そしてこの原稿を書いている一九七六年まででも一二七年しか経っていない。しかるにこの百何年かの間にベルトルドの着目を基礎として、内分泌学は実に瞠目すべき長足の大進歩を遂げたのである。

トーマス先生はゲッチンゲン駅のホームまで私の荷物を持ち、そして汽車が出てしまうまで私を見送って下された。これがトーマス先生にお目にかかった最後であった。昔を懐かしむ心と共に、トーマス先生の絶大なご懇情、そして碩学中の碩学である佐々木隆興博士の、その上にも真理探求の力の偉大さに、ひしひしと胸打たれる思いである。

初出;蒲原 第43号 昭和52年。随筆集「続々 遍歴」昭和59年に収録。