解説;

佐々木東洋が戊辰戦争に軍医として従軍し、奥州白石(現宮城県白石市)の亘理家に宿泊したことはよく知られている。 筆者の斉藤達雄先生は、東北大学医学部を卒業、黒川内科を経て、抗酸菌病研究所癌化学療法部門教授に就任、定年後には癌研付属病院院長を経て、 杏雲堂病院名誉院長及び(財)佐々木研究所理事・評議員を務められた方である。本文にあるように、斉藤達雄先生の春子奥様は、亘理家ご出身 であり、佐々木家、亘理家、黒川家と斉藤家とは不思議な縁で結ばれている。

杏雲堂病院と亘理家

斉藤達雄 

                佐々木研究所附属杏雲堂病院名誉院長


佐々木東洋先生と亘理晋

明治4年(1871)2月、奥州福島地方に動乱が発生し、兵部省の派遣した軍隊の軍医の総指揮として、当時の中助教の身分の佐々木東洋先生(以下敬称略) の宿所は、白石の亘理家の屋敷であった。

佐々木東洋は天保十年 (1839) 、佐々木震澤の長男として江戸に生まれ、幼名は伝三郎、長じて師興、後に東洋と号した方で、その精桿な面影は、 今もなお杏雲堂病院玄関右手の胸像にみることができる。

亘理家は、その昔、白石域主片倉小十郎の祈願所であった千手院の別当で、京都聖護院派に属する家柄であると共に、東北の俳句の四天王の一人 とうたわれた松窓乙二の後裔でもあった。

そのとき亘理家の当主は、乙二の孫嫁にあたるエイ女であったが、東洋の人柄に敬服し、是非、次男の左伝( 後に晋と改名 ) を、供に加えていただき、医師として訓育して欲しいと願いでたが、東洋は、今はいわば戦陣にある身ゆえ、いずれ戦禍がおさまって、東京に帰ったら、そのとき手紙をよこすから、上京させるようにと云って帰京した。

帰京後、約束どおりの連絡によって、晋は、東京に商品を仕入れにゆく白石の商家の高甚主人 ( 高橋甚五郎 ) に連れられて、東京の東洋の許に弟子入りをした。当時、晋少年は16歳であった。

晋少年の見た当時の佐々木家

このようにして佐々木家に弟子入りした晋少年の目にうつった、当時の東洋をとりまく東京の雰囲気は、いろいろの書物に述べられているが、 郷土史家の菅野円蔵が、当時の人々数人と座談会の形式でまとめられた記録は、語りあう人々の方言などと共に、後の亘理音翁を敬愛する情景 もこまかに描写されていて、極めて興味深い。杏雲堂病院百年史にも引用されているが、さらにその一部をここに転載させていただく。

亘理少年は、佐々木東洋が有名な先生だから、余程堂々たる邸宅に住んでいるのだろうと想像していたが、実際に行って見ると小さな家だった のでたまげたそうだ。

「東洋は東京に帰ってから軍医をやめて開業した。そうしたら、当時の政府の偉い人達や、その家内のものとか、いろいろ偉い人達が沢山診て もらいに来たので、又、たまげたそうだ。東洋の奥さんはよほど良い家から来たらしく銭の勘定を知らなかった。亘理は最初の弟子だったから、 豆腐を買ってこいとか魚を買ってきてくれとか使いにやられた。……

亘理は初めのうちは医者など嫌いだった。俺は官員になるんだと考えていた。或る日大学へお供をして行って解剖を見て驚いてしまった。 医者は大学者にならなければ覚えられないわい。医者は偉いもんだということを発見してそれから医者になる決心をした。それから初めて学校 に入った(大学東校別科 )。学校は本科 ( 独乙語で学ぶ者)、別科 (日本語で学ぶ者 ) と二つあったが亘理は別科に入学した。学費は東洋から 出してもらった。……

そのうち先生が段々有名になって来て、日本橋大伝馬町の某金持ちで金物問屋だったが、むやみと東洋先生が好きになって屋敷を世話することになった。問屋さんが先生にお屋敷の売物がありますがいかがですかというと、先生は、俺に相談することはない。亘理一人にまかせるからお前一人で行って買って来てくれと云うことだった。そして亘理さんにお金を持たせてやって屋敷を買った。このように亘理さんに一切を任せて大きな屋敷に移転した」。

佐々木東洋先生と杏雲堂病院の誕生

佐々木東洋の生涯を記すことは、この小文の目的ではないが、長崎留学、大学病院長就任、佐々木塾の開設など、医療と医学の進歩の為に、終生をささげ、めざましい活動を行った。その間、一貫して、医は仁術なりとして町医者の精神を貫き、「思うに医道は病者を診て之を救はんとする慈悲心に出るもので、射利の目的で起ったものではない。医は仁術である……」と手記の中に述べると共に、「医学の進歩に努め、医業を通じて社会に貢献する」ということを生涯の理念とした。

話が前後するが、西南戦争における救助活動などの後、当時日本に多くみられた脚気の治療について、西洋医と漢方医による治療成績の比較を提案した東洋の意見が実現され、宮内省の費用によって脚気施療院が建設されたが、西洋医の治療法に軍配があがった。かくして、所期の目的を達した病院が閉鎖されたにもかかわらず、ひきつづいて東洋は私費によって病室を設け、脚気患者を治療し、さらにこれは脚気のみならず、一般内科患者の診療を行うことになり、ついに明治 14年 (1881) 、病棟を増築して、杏雲堂病院の誕生をみるに至った。東洋 42 歳のときであった。

佐々木政吉先生と亘理晋二

これよりさき、慶応 2年 (1865)、佐々木東洋は、従兄弟の間柄になる中田政吉を養子としてひきとった。

佐々木政吉は、従兄弟とはいいながら、東洋に見込まれて養子となるだけの方で、幼時より秀才の誉れたかい人物であった。佐々木政吉についても、記すべきことは多いが、ここではそれらを割愛して、留学後、東大のベルツ教授のあとをついで診断学を受けもち、日本人医学者として、はじめて医科における教授になった方であることを述べておく。また、結核の診療にも心をくだき、療養所の必要性を考えて留学より帰京したことが、後の杏雲堂平塚分院の設立として実を結んだことを加えておく。

亘理晋は、前述の如く、東洋の下で医師として訓育を受けた後、永く東京にとどまるようにとの恩師のすすめもあり、自分もそのことを希望したかもしれないが、郷里及び実家の懇望もだし難く、白石に帰って、亘理医院を開設した。時に明治 13 年 3月であった。晋は、東京帰りの医師ということもあって、なかなかの盛業であったと思われるが、持ち前の風格に加えて、ある程度の政治性も具えておったらしく、白石の土地に居りながら、宮域県の医師会長をつとめたのみならず、宮域県議会議長などもつとめ、当時の白石の町民からも広く敬愛されたようである。晋の医師としての家業は、次男の晋二が継いだ。

晋二は、東北帝国大学医学部の前身である仙台医学専門学校を明治 42年に卒業し、魯迅などが同級生の時代であった。晋は、晋二が医専を卒業した後、東京に留学させ、再び佐々木家の世話を受けて、杏雲堂病院につとめさせた。この頃は、東洋から政吉の時代に移り、晋二は、主として政吉の薫陶を受けたものと思われる。晋二の在京期問はあまり長いものではなく、ほぼ 2年くらいであったが、白石に帰った後は、専ら父を助けて医業にいそしみ、これによって、父の晋は、人々に請われるままに、前述の如く、白石の町の興隆に対する表、裏の仕事に精をだし、趣味としての和歌の道にふけることができた。白石の亘理家には、東洋の胸像、肖像画をはじめ、いろいろのゆかりの品々が愛蔵されているが、殊に玄関の間には、政吉の書になる扁額「祚無極」が、興堂の署名の下にかかげられている。

佐々木隆興先生と佐々木研究所

佐々木東洋は、義弟東溟の次男隆興を、佐々木政吉の養子に迎え、隆興は、杏雲堂病院の院長として精励する傍ら、研究に尽粋し、昭和14 年 (1939)1月、財団法人佐々木研究所を設立するに至った。隆興が、癌の基礎的研究において、世界にほこるべき数々の業績を挙げ、殊にアミノ酸の研究およびアゾ色素による肝癌発生の研究で、異例の再度にわたる学士院恩賜賞を受けたことは、あまりにも有名である。これらをふくめ、最近までの華々しい佐々木研究所の成果については、これ以上ここでは述べない。ただ、奇しくも今年佐々木研究所は、開設 50 周年を迎え、駿河台の地に、新装なった研究所の披露が 9 月 28 日に行われることを述べておく。

むすび

ここに、 100 年の歴史を有する杏雲堂病院、及び 50 年の歴史を有する佐々木研究所と、奥州白石市亘理家の因縁をいささか述べさせていただいたが、現在の亘理医院の院長は、亘理晋二の長男亘理健一 ( 黒川内科出身 ) であり、その姉にあたる春子は、筆者の家内である。

筆者の恩師黒川利雄先生の御子息黒川雄二博士は、現在、国立衛生試験所の毒性部長であるが、雄二博士の夫人不二子様は、佐々木隆興先生の御子息で、現在、佐々木研究所杏雲堂病院理事長である佐々木洋興先生の御長女である。このおめでたい御結婚を、かつて仙台在住時代に伺って、その御披露の宴に御招きをいただいたとき、あまりにも深い御縁と因縁に、筆者は深い感銘を覚えた。

黒川利雄先生は、癌研病院院長、そして名誉院長として、御逝去まで佐々木研究所の理事をおつとめになられ、その御推挙で、癌研病院副院長、院長時代の筆者も、佐々木研究所の理事を承っており、さらに、昭和 年 11 月からは、杏雲堂病院の名誉院長をつとめている身である。一時、ルーツ探しがさかんであり、その後、これに対する反動もあったが、思えば、人の身は何処かにつながる縁があり、見えぬ糸であやつられていることもあるものだとつくづく考えている。それにしても、今から約120年前、 16 歳の少年の終生の恩師たるべき人として、佐々木東洋先生をみこんだ白石のエイ女の眼力は、大したものであったと、今だに話題はつきない。近頃、折にふれて、筆者の杏雲堂病院転出の動機を尋ねる人多く、ここに概略をしたためて、その弁とする。 (1990.8.8)

初出;癌治療・今日と明日。 12 巻、 32-35 、 1990 。