解説;

佐々木東洋が戊辰戦争に軍医として従軍し、奥州白石(現宮城県白石市)の亘理家に宿泊したことはよく知られている。筆者の亘理健一先生は、本文にあるように、佐々木東洋に師事した亘理晋先生の孫(亘理晋二先生ご令息)に当られる方で、現在白石市で亘理内科胃腸科医院院長としてご活躍中である。

佐々木東洋先生と祖父 亘理晋

                             亘理健一

亘理家は白石域主片倉小十郎の祈願所であった千手院の別当、京都聖護院に属する家柄で、その先祖の中に、奥州俳諧四天王の一人と称せられる松窓乙二は晋の曾祖父に当る。

晋は父清儀、母エイの次男として、嘉永六年八月十日白石に生れ、幼名を左傳と云い、将来は武士になる積りだった。当時東北地方は維新前夜で世情騒然、東北諸藩は世良修三の讒言により賊と見做され、山野は戦火に見舞われた。

明治四年(一八二一年)二月、福島地方に動乱発生、兵部省の派遣した軍医の総指揮として、当時の中助教の佐々木東洋先左(以下敬称略)の宿所は、亘理家の屋敷内にあった。

その時、当家の当主はエイであったが、東洋の人物に敬服し、是非左傳(のち晋)を供に加えて頂き、医師としての訓育を願い出た。東洋帰京後連絡があり、白石の商家の高甚主人に連れられて、早速東洋の許に弟子入りした。その時、晋は十六才だった。東洋はその後、軍医を辞し開業した。名医の誉れ高く、当時の政財界の著名人が彼の診察を希望して、門前市をなす有様であった。晋は東洋の最初の弟子だった為に、東洋の家庭の一員のようなもので、佐々木家の内外のことを委せられた。

晋は生来気性が激しく、一徹なところがあり、東洋と意見が合わないような時には、東洋の御尊父震澤先生が仲裁に入られ、晋に是非を淳々と解かれ、彼の昂ぶる心を落ち着かせて頂いたと父晋二より聞かされたことがある。晋は医者など嫌いで、官員になる積りだったが、ある日、東京大学医学部の中助教でもあった東洋のお供をして、大学で解剖をみて驚いた。医者になるには大学者にならなければ覚えられない。医者は偉いものだということで、医の道を志ざしたという。

当時、大学東校本科(独乙語で学ぶ者)と別科(日本語で学ぶ者)とがあり、晋は別科に入った。学費は東洋から出してもらった。そのうち、東洋の名声が上り、診察室が手狭になり、便利な広い土地を世話してくれる人があって、東洋は「晋お前に委せるから買って来てくれ」と云われ、駿河台の一角を購入、杏雲堂医院(のちの杏雲堂病院)を開設した。晋は、東洋の「医は仁術」のモットーに則り、常に師の精神を帯し、人のために射利を捨てることを心掛けた。

やがて晋に転機が訪れた。東洋の勧めもあって、永く東京に留まっていたかったが、郷里及び実家の懇望もだし難く帰郷し、松窓療院(のちの亘理医院)を開設した。時に明治十三年二月だった。

白石最初の学校出の医師ということで、なかなかの盛業であったらしく、持前の風格に加え、ある程度の政治性を具えていたらしく、昭和六年死去するまで、四十有余年にわたり刈田郡医師会長を務め、その間県会議長、宮城県医師会長などを歴任し、宮城県や白石地区の医政並びに感染症予防などに尽力した。

一方、晋の若い時代の体験に基づき、今後医学やその他の学問が必要であり、青少年の中等教育は焦眉の問題であると痛感し、早稲田大学出の白石町延命寺住職疋田運猷師と相計り、遂に明治三十二年三月、刈田中学講習会(のちの宮城県立白石中学校、現白石高等学校)を設立した。

昭和二年、第二師団特別演習の際、仙台に行幸の昭和天皇に永年の功績があったとして、単独拝謁の栄に浴し、昭和六年五月九日没した。白石市延命寺に葬られる。行年七十八歳。

辞世の旬

人の身は 本来空のから衣 ぬぎてぞかえる もとの古巣に

初出;宮城県医師会史、続編、第四編。郡市医師会活動史、白石市医師会、風土記、519頁、平成十二年九月十四日発行。