解説;三浦義彰先生は、1915年東京生まれ、1941年に東京帝国大学医学部を卒業後、三年ほど海軍短期現役軍医となったがその直前に 短期間ではあったが佐々木隆興との接触があったので、その印象を千葉医学雑誌に書かれたものである。先生は、その後東京大学医学部助教授を経て 1960-81年まで千葉大学医学部生化学教授として、主としてDNA合成開始機構の研究をされた。一般向けに、生化学の解説書や多くのスポーツや食事に関する 生化学的な本も出されている。 |
佐々木隆興 (1878-1966):佐々木政吉東大内科教授の養子、1902年東大医学部卒、医化学教室で隈川教授につき生化学を学ぶ。1905-10年ドイツ留学、 E.Fischerに蛋白質化学を学ぶ。京都大学内科教授 (1913-16)、杏雲堂医院院長 (1916-38)、兼佐々木研究所所長 (1953まで)、1940年文化勲章受賞。
1941年の8月、日米交渉が段々切迫してきて、世の中に戦争やむなしという風潮が漂い始めた。私は当時東大医学部の4年生で卒業を控えて何となく 慌ただしく夏休みを過ごしていた。そこへ何処からともなく医学部の卒業は3ケ月早くなって12月になる、という情報がはいり、当局に真偽を確かめると 実はそうなんだという。急いでクラス会を招集、3ヶ月もかかる卒業試験は止めて、すぐに軍医になっても困らないように卒業前に各医局へ配属して実地 訓練をすることになったのである。 そして卒業後の入局先も早く決めるようにと事務室からの指示で、卒業後のことが未定だった私は大いに慌てて、緒方富雄先生に伺いをたてた。 緒方先生には学生時代の初めからいろいろお世話になっていたのである。先生は今、急に決めても戦争から帰ってくれば事情も変わってくるから、 取りあえず緒方先生の師匠だった佐々木隆興先生の主宰しておられる佐々木研究所に籍を置いたらどうだろう、といわれ数日後に佐々木研究所に伺った。 佐々木先生は私の遠い親戚に当たり、以前から存じ上げていたので、比較的気軽に駿河台の研究所に伺い、先生にお目にかかった。先生は「緒方君から 聞いているが、君は将来何を勉強するのか、ここには病理学の専門家もいれば、化学の専門家もいるよ。医学という難攻不落のお城を攻めるにはいろいろな 武器が要る。君は武器を使うかね」といわれる。私は逆に先生は武器の専門家ですか、と伺ったら先生は私の武器は生化学だよ、といわれたので、私は先生 のお得意の武器を習いたいのです、とお答えした。これで私の専門は生化学に決まった。佐々木先生は剣道の大家で、ドイツ留学中にはフェンシングを 習い、どこかの試合に出て優勝されたという噂を聞いていたので、この武器問答は面白かった。 この時先生はご自分の出身教室が医化学教室だったので、正直に自分の武器は生化学といわれたが、 1955年の日本生化学会創立30周年の記念総会では「生化学は私の余技」といわれて「本職は内科」と言明されている。これは、先生は一時京都大学の第一 内科の教授であった時代もあることから、そういわれたのかもしれないし、また「医学という難攻不落の城を攻略するには」というお言葉から考えると、 最終の目的は臨床医学の研究であったから、内科といわれたのもしれない。 私が佐々木研究所に通ったのは lヶ月位であろうか。1942年のl月には海軍の短期現役の軍医中尉として入隊したので、ほんの僅かな期間に過ぎない。しかし、この短い間で毎日先生が私 の部屋に回って来られるのは午後4時頃だが、それから8時頃まで一対一の実験講義をして頂いた。ガラス細工から始まり、天秤の計りかた、キエーダール 法による窒素の定量まで教えられた。これはまことに貴重な体験だった。 戦争が終わり、1945年の9月に佐々木研究所に只今帰ってまいりましたと伺うと、先生は「もう財産税で個人の研究所は成り立たない。君は東大に帰れ」と アッサリ引導を渡されてしまった。止むなく東大の生化学教室に入ることになってしまったのである。 先生の初期の研究には細菌のアミノ酸代謝の研究が多いが、後に吉田富三博士と共同でオルトアミド・アゾトルオールをネズミに投与して肝臓癌をつくった 実験は純化学物質による発癌実験として画期的業績であり、文化勲章受賞の対象になった。 先生の面白いクセは立ち話である。駿河台の坂を上がりきった街路でよく私はつかまった。「この頃は何を研究している?」というご質問から始まって 「ペニシリンの作用機構の研究などは面白いだろうね」などとそれからそれへと実験のアイデアを話される。お疲れになるのでは、とは思うものの話に夢中 になって一時間位の立ち話は普通のことだった。あれほど後から後からと面白い実験のアイデアが浮かんでくる方はあまりみたことがない。 先生のお若い時は先にも述べたように剣道にかなり熱をあげておられた。それが嵩じてドイツ留学中のフェンシング大会で優勝ということになったのであろう 。何事にも徹底して研究される方だから中年からの魚釣りという趣味もなみ大抵のものではなかったらしい。釣りの道具に凝られて、あまりたくさん釣り 道具屋に注文されるものだから、注文した品の宛先は神田駿河台、佐々木釣り道具店となってしまったほどである。郵便局でもそれを心得ていて、 小包がちゃんと佐々木研究所に届いて来たという話がある。 お若い時にも佐々木研究所の前身のご自分の研究室はご自宅にあり、そこには大学の医化学教室よりも、研究設備が整っていたという伝説がある。 私が生化学の実験の練習をした時の薬品やガラス器具などもおそらく先生の自費で買われた品であったらしい。先生は研究というものは自分のお金で やるものと思っておられたから、戦争が終わって、財産税というものが掛かってきて、自費の研究ができなくなると、私にも大学に帰れと言われたので あろう。
(千葉医学雑誌、75巻、4号、1999 転載許可済み) |
|