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好奇心と向上心を持ち続ければ 満足できる仕事ができる 冨永協子さん 杏雲堂病院婦人科病棟看護師 (東京都千代田区) エキスパートナース 2001年12月号 照林社 |
自分の時間を取り戻したくて、忙しい大学病院からクリニックに転職した冨永協子さん。しかし、いつの間にか病棟が恋しくなってしまった。ベッドサイドにこそ、看護婦のやりがいがある。再び病棟に戻った彼女が見い出したものとは。 看護婦として何かが足りない! 「やっぱり病棟に戻りたい」 都心のビルクリニックで働いていた冨永協子さんは、28歳を目前にそう思うようになった。今の職場に不満があるわけじゃない。一般外来と検診が中心の大型クリニックには5〜6人の常勤医と10人以上のナースが勤務し、活気があった。 看護婦として成長するうえで、得たものも多い。会杜員相手の一般外来では接遇の必要性を痛感したし、検診業務を通して、予防医学や早期発見の重要性を認識することができた。 そして、何よりもここには“おだやかな生活”がある。アフター5に友人と待ち合わせて食事を楽しんだり、習い事に通ったり、普通のOLと同じように日常をエンジョイできた。 なのに、何かが足りない。看護婦として働くための何かが―。 冨永さんは大学受験に失敗した後、都内のインテリア専門学校に進み、そこを卒業したあとに再び看護学校に進学した、いわゆる“回り道ナース”の人である。「看護婦」への特別な思い入れはなく、資格を取りたかったというのが志望の動機。看護学校を卒業すると間もなく、ワーキングホリデーを利用してカナダに渡った。自分1人の力でどこまでやれるのか、知らない土地で試してみたかったのだという。さまざまな出来事を体験し、彼女は約10か月後、日本へ帰ってきた。 時間に追われた大学病院時代 帰国後、都内の大学病院に就職。希望どおり外科病棟に配属されたものの、楽しい休暇の“後遺症”に悩まされた。カナダの大自然の中でゆったり暮らしていたせいか、分刻みのハードな生活についていけなかったのである。とにかく慣れることに一生懸命で、ナースの仕事について考える余裕はなかった。 仕事に慣れた2年目になっても目の回るような忙しさは相変わらずで、平日はもちろん、休日さえ翌日の仕事のことを考えると思いっきり遊べない。仕事とプライベートとの切り替えがうまくできず、ストレスをどんどん抱え込んでしまった。 そのうち自分の看護に自信が持てなくなり、大学病院での医療行為にも疑問を持つようになる。「積極的な外科治療や末期患者への延命治療など、本当に患者さんのためになっているのだろうか。医療の進歩がときには患者さんを苦しめていることもあるんじゃないかって」 その頃、仲のよかった同僚ナースが病院を辞めてしまった。何でも話し合える相手を失い、それ以上続けていくことができなくなった。3年目の冬のことだ。「いざ辞めるという時になって、大学病院の役割の大きさに気づきました。また、新人だった自分が大きなミスもしないで、仕事がこなせるようになれたのは、スタッフの指導や支え、見守りがあったからだということもわかりました。もう少し頑張れたかなと思いましたけれど・・・・・・」。一抹のさみしさを抱えながら彼女は病院を後にした。 しばらく3交替から離れたいと考えた冨永さんはクリニックを選ぶ。それは、自分の時間を取り戻すためでもあった。 ところが、気持ちに余裕ができると、看護掃の仕事が面白くなってきた。すると欲が出てきて、いろいろな本を読み漁るようになった。その頃からだ、病棟に戻りたいと考えるようになったのは。27歳の自分に足りないもの―それは、“やりがい”だった。ナースのやりがいはベッドサイドにこそある。こんな強い思いが彼女の中には芽生え始めていた。 ベッドサイドで見えてきたもの いま彼女は、婦人科病棟の中堅ナースとして頑張っている。担当医は男性であることが多いため、患者の診察や処置には気を配る。しかし、それ以上に重視しているのが精神的ケアである。 20代の頃は、疾患の理解や技術の習得に必死で、精神的ケアが大切だと教えられてもピンとこなかった。現在の病院で働くようになり、ベッドサイドで患者と過ごす時問が増えるにつれ、その重要性がわかるようになったという。 「文献を読んでも実践できるものじゃありませんよね。私の場合、その患者さんに関心を持って誠心誠意、接することから始めています。すごく難しいことだけど、力を入れていきたい」。30代だからこそ見えてきた看護のテーマである。 この夏、冨永さんは熊本で開催された看護学会に参加し、全国から集まってきたナースたちの実践報告に大いに刺激を受けたそうだ。 「目の前に宿題を山積みにされた感じ。頑張らなきゃと思いましたよ」。同時に、看護婦という仕事をどんどん好きになっている自分にも気づいたという。寄り道をしたけれど、これまでやってきたことは決して無駄ではなかったとも思う。 「世の中にはいろいろな患者さんがいて私たちを必要としているのだから、看護婦という職業にもさまざまなバリエーションがあっていいのでは」と冨永さん。 これからの看護婦人生も、まっすぐ進んでいけないかもしれないが、何歳になっても好奇心と向上心を持ち続けることを忘れたくない。そうすれば、私なりに満足できる仕事ができると、彼女は言う。もう迷いはない―。 読者へのひと言 悩みは自分1人で抱え込まないで、だれかに相談することも大切です。また、いろいろな本を読んで考えるうちに客観的に見えてきたりもします。ただ、さまざまな情報があふれているから、それに振り回されたり、他人とばかり比べていると自分らしさを見失ってしまうこともあるので気をつけてください。何をやりたいのか、自分なりの答えを見つけてほしい。世の中には、いろんな看護婦がいていいと思うんです。 Kyoko Tominaga : 1967年、東京都生まれ。 1991年3月、東京医科歯科大学医学部附属看護専門学校卒業。同年6月から翌年4月までカナダに遊学。 1992年6月、杏林大学附属病院に入職。第2外科病棟に配属される。 1995年4月、新宿センタービルクリニックに転職。一般外来と検診業務に携わる。 1997年9月より杏雲堂病院に勤務。婦人科病棟に配属され、現在に至る。 |