連載 がん研究の巨人たち
吉田富三  新時代を開いた「吉田肉腫」


月刊がん もっといい日 7月号 
日本医療情報出版 2002年7月
薬物の経口投与で初めて人工がん発生に成功
日本のがん研究史のなかでトップクラスのひとりであり、晩年には国際がん学会会長、文化勲章受章など、俗な言い方をすれば「位人臣をきわめる」ことになる吉田富三だが、その研究生活は決して平坦ではなかった。
明治36(1903)年、福島県石川町に生まれた。秀才であったが、生家は経済的にはあまり恵まれていなかった。吉田自身も、東北の貧しい環境で病気や出産に苦しむ庶民の姿を見て医学を志し、旧制二高を経て東大医学部を卒業すると、ひとまずすべての臨床の基礎である病理教室に入った。だが教室は希望者に溢れて超満員であり、いずれ内科に進むことを条件に、無給の副手として片隅で顕微鏡を覗く生活を送った。1年の後、緒方知三郎教授から、「佐々木研究所に行かぬか」と勧めを受けた。神田駿河台の杏雲堂病院に併設されている研究施設で、所長の佐々木隆興から、自分の助手になってくれる病理研究者がひとり欲しいとの依頼があった、月給は100円だという。とりあえず生活の保証が欲しい吉田は進んでこの求めに応じた。
依頼者で杏雲堂病院の院長でもある佐々木隆興は、明治期の代表的医学者であった佐々木東洋以来、初代の日本人東大医学部教授となった2代目の政吉と、大学者を輩出していた名家の3代目だった。彼自身も京都大学教授をつとめ終えたあと、自分の研究所をつくって数々の生化学研究を行い、アミノ酸の細菌による分解とアミノ酸合成で、すでに学士院恩賜賞を受けていた。
そして当時、テーマとして選んでいたのが、佐々木が化学的実験病理形態学と名づけた研究であった。初め、この研究目的は、実はがんを標的としたものではなかった。彼がドイツ留学中から抱いていたもので、ある毒物が体の中を通過した場合、それが1回では証明できない作用であっても、長期に行えば必ず障害現象が現れるであろう、その結果を病理解剖的に追跡してみたいというのだった。
この手法は、今日でいう薬剤の慢性毒性試験に似たものであったが、ともかくどのような化合物を動物に投与するかについては、化学について知識のある佐々木が考える。が、同時に顕微鏡を用いて組織病変を観察できる、しかし既成の見方に染まっていない、若い病理専門家が欲しい。そのため呼び寄せられたのが吉田であったのだ。
だが動物にさまざまな化合物を投与して、その臓器を観察する吉田の生活は、絶望的に単調きわまる毎日毎日で、そのうちにここには病院もあるのだから、内科の医者にでもしてもらおうと考えていた。
そんな3年目のある日、佐々木は「オルトアミノアゾトルオール」とある2本のビンを吉田に授けた。文献によると上皮細胞の増殖を促す作用があるのだという。吉田はこの物質を油に溶かして、さまざまな動物への経口投与を開始した。
そのなかからラットの肝細胞に、はっきりした増殖現象が発見されたのである。初めは良性腫瘍だったが、日がたつにつれて悪化し、やがて人間のがんと寸分違わぬ肝臓がんができた。
このとき吉田は家に帰ると、迎えた妻に、「できた。できたぞ」と叫んだという。それ以前に山極勝三郎らによって皮膚がんはつくられていたが、世界で初の経口による人工がんであった。昭和7(32)年のことである。このヒョウタンからコマのように生まれた業績によって11(36)年、佐々木は吉田とともに彼にとって2度目の学土院賞を受ける。

移植容易なラットの腹水がん戦後、「吉田肉腫」と命名
このときすでに吉田は長崎医大に移っており、同時にドイツ留学を命じられチュービンゲン大学で学んでいたが、教室内で奇妙ながんのモデルを目にした。それはマウスの腹水に浮いている「エールリッヒ腹水がん」と呼ばれるもので、ピペットでマウスからマウスヘと移すことができる、しごく便利なものである。
しかしそのとき吉田はあまり気にとめることもなく留学を終わり帰国し、昭和13(38)年には教授に就任して新設の教室を主宰した。が、ある日、助手に思い詰めたようにエールリッヒ腹水がんについて語りながら、「これができると、非常にがんの研究に役立つんだよ」と言った。何かが彼の内部で発酵し始めていたのである。弟子たちは指示どおりに、いくつかの動物にできたがんを刻んで腹腔に植えることを試みた。だががんは固まりになるだけで、1年たっても2年たっても成功しない。さすがにいや気がさし始めると、吉田は山極博士の例を持ち出して、「がん研究は根気だよ。馬鹿にならないとできないよ」と言った。この研究からついに腹水がんは得られず、思いがけない方角から的は射られたのである。太平洋戦争たけなわの昭和18(43)年3月、例のオルトアミノアゾトルオールを口から投与するだけでなく、亜砒酸の溶液をラットの皮膚に塗っていると、4ヵ月ぐらいで左の睾丸に浸潤が起こり、腹もふくれている。
そのラットを取った吉田の手は心なしか震えていた。腹腔を開けると、中には牛乳のように白濁した腹水がいっぱい詰まっている。さっそくほかのラットに植えてみると、1匹に同じような腹水が現れてきた。このバラバラに浮かんだがん細胞の群れは、適合するラットを選べばきわめて容易に移植された。
吉田は翌年、東北大教授に転任を命ぜられた。ネズミには米を食べさせ、自分は食糧難のためにイモを食べていてガリガリにやせた吉田が、腹水がんでふくれたネズミを後生大事に抱え、途中自分の弁当を彼らに分け与えながら満員列車に揺られ、長崎から仙台に向かった。
この転任は、腹水がんにとっても吉田にとっても、この上なく辛運なことであった。1年後、長崎医大は原爆に遭って、跡形もなく灰塵に帰するのである。
しばらくは爆撃下の佐々木研究所で佐々木所長の好意により、そして戦後は東北大学で継代移植された。食糧難の時代だったからネズミの餌を確保するための困難などがあり、維持され続けたのは奇跡に近かった。
終戦後、この腹水がんが海外に知られると、各国から引き合いがあり、長崎系腹水肉腫の名は国際的にとどろき、広まった。昭和23(48)年の日本医学会総会で、「吉田肉腫」と命名すべしとの提案があって、満場一致の拍手で採択された。

国産第1号の抗がん剤を開発
東北大で吉田の門下たちはこの吉田肉腫にいろいろな薬物を投与すると、細胞がどう変化するかの観察を行った。確かにその目的には吉田肉腫は絶好の材料であった。同時にこれは、がん化学療法の前駆的研究ともいうべきものであり、吉田らががん化学療法に関心を深めていくのも自然の勢いであった。
吉田がそのことを小冊子に書くと、協力の名乗りをあげたのが、東京大学医学部薬学科の石館守三教授であった。石館は昭和25(50)年、招かれて渡米し、スローン・ケタリングがん研究所などを訪ねて杉浦兼松らに会い、がん化学療法の研究が活発に進められており、このままでは日本が遅れをとることを痛感していた。
吉田にとっても、石館は願ってもない共同研究者であった。病理学者は、顕微鏡を覗いてがんの細胞の変化を形のうえで観察する専門家である。だが、既成の化合物を与えるだけでは、研究は前に進まない。今までの化合物の構造を変えたり、新しい化含物を合成したりできる化学者が必要だ。つまり、「顕微鏡」と「試験管」が助け合わなければならないのである。
だが、吉田のがん化学療法研究に対する医学界の風当たりは強かった。第一に、恩師の佐々木隆興が賛意を表さなかった。これには、それまで怪しい「結核の特効薬」が登場して、杜会のひんしゅくを買っていたように、「がんの薬」のために吉田の名声が損なわれるのではないかという、愛弟子を思う危倶が秘められていたのだが、さらにもうひとりの反対者が病理学の大御所、緒方知三郎であった。
彼は、がん化学療法には何の理論的根拠もないと批判した。これに対し、吉田は吉田肉腫の生態から観察して、一種の寄生体とみることができる、つまりエールリッヒの「選択毒性」理論の枠組みに入れることができると反論した。ともに理屈を振りかざすドイツ派同士の激突であったが、理屈はともかく、この論戦に終止符を打つには、本物の抗がん剤を開発してみせなければならなかったのだ。幸いに協力者の石館には、ひとつのアイデアがあった。アメリカで最初に開発されたナイトロジェン・マスタードは副作用が強かった。これを酸化することで、その毒性を軽減できないかと考えたのである。この結果、生まれたのがナイトロジェン・マスタード・Nオキサイドという化合物で、この薬物によって毒性を10分の1に低下させることができた。こうして昭和27(52)年に、国産第1号、の抗がん剤「ナイトロミン」が発売された。
残念ながらナイトロミンはその後、ドイツからやはり同じ発想によるシクロフォファミド(商品名エンドキサン)というヒット抗がん剤が生まれて、市場を奪われていくが、その開発者は、「日本で生まれ、ドイツで育った薬」と感謝の意を述べたという。吉田は以後、東大教授、癌研究所所長を歴任し、国語審議会委員を務めるなど、文化的、社会的にも活躍しながら昭和48(73)年、肺がんで死亡した。こうして吉田肉腫、ナイトロミンの開発という、基礎、臨床の両面で大きな功績を残した吉田だが、一方で常に物事を深く考察することを忘れないという、学門の王道を歩んだ学者であった。多くの含蓄豊かな文章が残されたが、そのなかで、「がんの謎は生物学の奥深く横たわっている謎に通ずる」との一文は、分子生物学によって発がんの仕組みが明らかにされようとしている今日、まさしくその通りであることが実証されている。

著者略歴
宮田親平(みやた・しんぺい)医学ジャーナリスト。
1931年東京都に生まれる。54年、東京大学医学部薬学科卒業後、文藝春秋に入社。「週刊文春」編集長、「文藝春秋」編集委員などを経てフリーに。著書に『科学者たちの自由な楽園』、『ガン特効薬 魔法の弾丸への道』『毒ガスと科学者』、『誰が風を見たでしょう』、『エイズはとめられる?』、『異端のガン特効薬』、『病院えらび辞典』、『ハゲ・インポテンス・アルツハイマーの薬』など多数。
医学ジャーナリスト協会会長を経て、現在同協会名誉会長。