吉田富三先生、小田嶋成和先生と佐々木研究所
                     佐々木研究所
                       前川昭彦

 わが国が世界に誇る「がん研究の偉大な先達・吉田富三先生」は、明治36年(1903)2月10日に福島県石川郡浅川村(現:浅川町)でお生まれになったので、来年は先生の生誕100年に当たる。これを記念して「吉田富三先生 生誕100年記念寄稿集」が発刊されることになり、原稿執筆の依頼を受けた。吉田先生の大きな業績の一つである「アゾ色素によるラット肝癌の発生」は当時の佐々木研究所でなされたものであり、後に吉田先生は佐々木研究所の第2代所長を務められるなど、吉田先生と佐々木研究所はきわめて深い関係にあるが、佐々木研究所に在籍しているとは申せ、私自身は吉田先生とはほとんど面識がない。それゆえ、何を書いてよいか迷ったが、「吉田先生、小田嶋先生と佐々木研究所」のタイトルで、人の縁について述べてみたい。
 
吉田先生は昭和2年(1927)に東京帝国大学・医学部を卒業され、昭和4年(1929)に佐々木研究所に研究員として赴任された。当時の佐々木研究所は関東大震災で壊滅した後、応急建築での研究が再開された直後で、お世辞にも研究所と云える状態ではなかったとのことであるが、そこで生涯の師となる佐々木隆興先生と巡り会い、佐々木先生の指導のもとで、あの有名なアゾ色素によるラット肝癌の発生の実験がなされた。吉田先生はその後長崎医大教授、東北帝大教授、東京大学教授を歴任されたが、恩師・佐々木隆興先生の要請により、昭和28年(1953)東大教授を兼任して第2代佐々木研究所長に就任され、逝去されるまで所長を務められた。


 吉田先生のお弟子さんの一人である小田嶋成和先生は、昭和45年に当時の佐々木研究所・病理部の研究員から国立衛生試験所(現:国立医薬品食品衛生研究所)に新設された薬品病理部の初代部長に就任された。

 私は同年秋に名古屋市立大学。病理学教室から国立衛試に移った為、小田嶋先生は私の師ということになる。それゆえ、勝手な言い方をすれば、私は吉田先生の“孫弟子”とも云える。私が吉田先生と最初にお会いしたのは、先生が主催しておられた峨々シンポジウムであるが、その時はまだ名古屋市大に在籍していた。同シンポジウムには2回ほど参加したが、参加者が全員集まってのある晩の食事では偶然にも先生の前に座り、先生のお話を聞き、また温泉で先生の背中を流した記憶があるものの、何分にも若く緊張していたせいか、先生とどの様な話をしたかは全く記憶にない。ましてや、その後に私自身が吉田先生が所長をされていた佐々木研究所に赴任し、さらに所長を務める様になろうとは、全く想像も出来ないことであった。

 国立衛試に赴任後は吉田先生とお会いすることもなく、先生はそれから間もなくの昭和48年4月27日、杏雲堂病院で亡くなられた(享年70才)。小田嶋先生は国立衛試で吉田先生のお仕事の原点である「化学発がん」の研究に専念され、衛試が厚生省直轄の研究所であった関係もあり、医薬品、食品添加物や農薬など種々化学物質の発がん性評価に関する研究で先駆的な働きをされたが、昭和55年2月53才の若さで急逝された。私は小田嶋先生が亡くなられたあとも引き続き国立衛研に在籍して化学物質の毒性・発がん性に関する研究に従事し、平成2年に佐々木研究所に転出した。

 財団法人「佐々木研究所」の歴史は明治14年(1881)に佐々木東洋先生によって現在の神田駿河台の地に設立された“杏雲堂医院”にまで遡ることが出来るが、研究所としての前身は明治27年(1894)に杏雲堂医院第2代院長であった佐々木政吉先生が自邸敷地内に作った研究室である。その後明治36年(1903)に第3代院長の佐々木隆興先生により研究室の改造と充実がなされたが、大正12年(1923)の関東大震災により同研究室および杏雲堂医院は壊滅した。その後研究室は応急建築で再開され、昭和13年(1938)に本建築の佐々木研究所が落成し、翌年の昭和14年(1939)に財団法人「佐々木研究所」(初代理事長兼研究所長:佐々木隆興)として認可された。次いで昭和16年(1941)には杏雲堂医院(昭和32年に杏雲堂病院に改称)が財団に寄付され、佐々木研究所と杏雲堂病院と云う二本の柱よりなる現在の財団法人「佐々木研究所」の形となった。研究所は幸い戦災のも遭わなかったが、その後建物の老朽化に伴い改築され、平成2年(1990)9月に新建屋が落成し、それまでの病理部、化学部の2部体制から病理部、生化学部、細胞遺伝部よりなる新体制で再出発し、今日に至っている。

 吉田先生と全く縁もゆかりもなかった私が佐々木研究所に赴任する様になったそもそもの始まりは、上述の様に吉田先生のお弟子さんであった小田嶋先生の元にきたことであり、そこに人の縁の不思議さを感じる今日この頃である。私を小田嶋先生に紹介して下さったのは、大学院生として入学した当時の名市大・第2病理の教授であった長与健夫先生であるが、長与先生と小田嶋先生はたまたま留学先(米国NCI)が同じで知り合った由。しかしながら長与先生の祖父・長与専斉先生は当時内務省医務局長の職にあって国立衛試を創設した人であり、またご尊父・長与又郎先生は当時東大教授(後の東大総長)として、吉田先生の師・佐々木隆興先生ときわめて親しかったとのことである。さらに、小田嶋先生を国立衛試に招聘したのは当時の所長。石館守三博士であり、石館博士は癌化学療法の研究で吉田先生とはきわめて密接な関係にあった先生である(同先生のご子息である石館基・元国立衛試・変異原性部長は国立衛試時代の同僚でもある)。しかしながら、私が佐々木研究所にくることになった一番大きな原因は小田嶋先生の研究室で黒川雄二博士(現:財団法人「佐々木研究所」第3代理事長)と同僚になったことであろう。黒川雄二先生は財団理事でもあった黒川利雄博士のご子息であり、夫人は第2代財団理事長・佐々木洋興先生の令嬢で、佐々木隆興先生の孫娘に当たる。縁は異なものとはまさにこのことである。

前川昭彦(昭和14年4月1日生) 

  昭和38年 名古屋市立大学・医学部 卒業

  昭和43年 名古屋市立大学大学院・医学研究科 修了

    同   名古屋市立大学・医学部 第2病理学教室 助手

  昭和45年 国立衛生試験所・薬品病理部 室長

  平成 2年  (財)佐々木研究所・病理部 部長

  平成13年     同     研究所長

 昭和45 年、名古屋市立大学・病理学教室から国立衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)内に新設された病理部(当時は薬品病理部)に転じ、当時所長であった石館守三博士により、佐々木研から衛試の初代部長に招聘された小田嶋成和先生に師事。小田嶋先生は佐々木研究所で吉田先生のお弟子さんであることから、云ってみれば私は吉田先生の孫弟子になる。