吉田富三先生と黒川利雄
                       黒川雄二

この度、吉田先生の生誕100年記念集に寄稿せよとのお話をいただいて、まことに光栄に思っている。執筆要項の執筆者紹介の中に「吉田先生とのご関係」をも含むようにとの指示である。色々思い浮かべてみたが、とても一二行では書けないほど先生との諸々の繋がりが多岐に渡っているようなので、先ずそれを説明させて頂くことにした。

詳しくは後述するが、先ず第一に吉田先生と父黒川利雄は、東北大学時代からいわゆる肝胆相照らす間柄で、東京で癌研所長と院長の関係になってますますそれが深まって、先生が6歳年下であったせいか父をvaterlicher Freundとも呼んでおられたとのことである。一方、小生は東北大学医学部を出て臨床、特に白血病に興味を持っていたが、その前に病理をするべきとの吉田先生のご助言もあって、抗酸菌病研究所の肺癌研究部門佐藤春郎先生の教室に、昭和40年に大学院生として入れていただいた。ところがそこで実験腫瘍学にすっかりのめり込んでしまい、臨床に戻る気もなくなり、学位取得、助手採用、NIH留学と昭和52年までお世話になった。今振り返ると、己の才能の無さにも気づかずに、当時の教室の先輩、鈴木磨郎、高橋俊雄、藤井敬二、黒木登志夫、後藤正義先生等に魅せられ憧れて残ってしまったのではないかとも思われる。帰国後は、佐藤春郎先生のご指示により仙台を離れ、佐々木研究所から国立衛生試験所薬品病理部長として赴任された小田嶋成和先生のもとに室長として移動し、そこで現佐々木研究所長の前川昭彦先生と同僚となった。その他に、古くから佐々木研究所には出入りしていたから、吉田先生の直弟子の方々、つまり佐藤博、井坂英彦、中村久也先生等とのお付き合いも長かった。よく「吉田学校」と言われるが、敢えて小生も先生の孫弟子としていただけるならば、そのご縁で実に多くの方々と今もご昵懇にさせていただいていることを、吉田先生に改めて感謝しなければならない。吉田先生とのもう一つの大きな繋がりは、先生の恩師である佐々木隆興の孫娘が小生の家内であることで、その縁で実に恐れ多いことだが半年ほど先生がなされた佐々木研究所長となり、現在は(財)佐々木研究所に理事長として勤めている。 

さて、吉田先生ご自身について書くのが本旨であるが、学会等々で幾度となくお会いしているのに、言葉まで思い出せる印象は一つしかない。それは、昭和40年代毎夏に開かれていた峨々シンポジウムで、気楽に浴衣がけで大広間に横になりながら発表、討論を聞き、夜は一杯やりながらさらに議論するといった雰囲気であった。長い階段を下りたところに、薄暗い浴場があったが、そこでいわば裸のお付き合いで先生ともお話が出来た。多分、昭和47年秋に杏雲堂病院に入院される前の時だと思うが、先生が「俺の肺がおかしい、みんなは肺繊維症だと言うが、これは肺癌だよ」と大きな眼で小生を見ながら何げなく語られ、どきりとして何とお返事していいかにとまどり、あの白く大きなお背中を眺めていた光景が不思議と思い出される。きっと、生前最後の旅行であり温泉であったのではないだろうか。

そんな訳で、冒頭にも書いたが、先生と父の間のことを、この際、父が残した日記を見ながら振り返ってみようと思い立った。

日記で最初の記載は、先生を長崎医大から東北帝国大学教授に招聘する時である。父は昭和18年9月から開始された木村男也教授後任選考委員会の一員として、新たに実験病理学を専門とする教授を呼ぶべきで、それには吉田先生が最適であると強調した。しかし、父はその後全くの極秘裏に南京と名古屋で時の中華民国(南京政府)主席汪兆銘(汪精衛)の診療に従事し、その逝去の19年11月まで数回しか帰仙出来なかった。19年10月14日には、教授会が吉田先生の歓迎会を医学部食堂で開いたとの記載があるが、それが両人の実際の初対面なのかどうかは不明である。

先生はがん化学療法に早くも昭和24年頃から関心を持っておられ、石館守三先生と共同でナイトロミンを開発されたのはよく知られた事実であるが、その時、父は内科教授として臨床試験に協力し、ゼミノームなどの症例に有効であったと報告している。

昭和27年に先生が東大緒方知三郎教授の後任として転任される時には、東北大学の学生から、本学を踏み台にして東大へ栄転するのはおかしいという意味での留任運動が起こったが、父は当時の医学部長として説得に当たり、無事に収まったとのことである。

そして昭和36年から国立がんセンター人事問題が始まり、父は度々上京することとなる。以下に父日記の一部を記載してみるが、この人事問題は諸処に経過がかなりよく書いてあるので、その参考としていただくだけの意味で敢えて日記のみの記載とした。

日記抄(原文のまま)

昭和36年(1961)

2月26日、朝はれ、東京雨

1時半東急ホテルにてガンセンタ-の会あり。田崎、久留、東京都、田宮、武見、黒川、吉田と会合す。結局は田宮氏の発言にて黒川、久留の中より病院長をえらぶということになる。余固辞するも彼は二人のうちより一人という線を出す。吉田君が反対の意見を出す。又田崎君も一身上の弁明をする。空気はやや険悪である。食事をして帰る。

7月20日 木、晴

吉田とともに帰る。がんセンタ-について、一、吉田ががんセンタ-長と研究所長をかねる。二、2年後に黒川に院長になって貰う。余略諒承す。田崎は南米への出発前に歯を抜いたというも上顎ガンのためらしく、院長不可能という。

10月13日 金、好晴

2時半阿部哲男君(注;医学部同級生、日本医師会副会長)来訪、予想通り厚生省がんセンタ-の人事の件である。余をがんセンタ-長となし吉田君が研究所長を引きうけるという。余は東北大学のためにあと2年つとむべきであると強調。また兼任の話あるも絶対不可なりと説く。彼も仲々引きこまずペンデイングにして帰るも、余にはその能力もなく、定年までやりたいと強調した。

12月8日 金、晴

田宮氏をセンタ-長とし、久留院長は大阪で相談してきめるという由。吉田君は断ったという。彼は川上、武見、田宮のラインに怒りをもっている。

昭和37年(1962) 

1月29日 月、晴

朝十時吉田富三君来訪、がんセンタ-につき彼の意見をのべる。自分は絶対にやらない、何となれば黒川、吉田か田崎、吉田の線で内科的視野に立ってやるならばよいが、胃がんを多く切るという丈けでは不可。田宮氏センタ-長と研究所長をかねるという。

9月14日 金、晴

吉田富三君来訪。田崎がガンの再発にて不能のみならず彼が院長ではがん研はうまくゆかぬという。梶谷でも不可。吉田所長で余が院長というらしい。ベッド300床。余、答を保留する。

昭和38年(1963) 

3月31日 日、晴、大阪

吉田君から田崎がやめて梶谷が院長代理で不安であるらしいから、確認したしという。がんセンタ-も余をねらっているという。武見と阿部哲男君らしいという。しかし余はがん研にゆきたいと思う。 

この後、父は6月末に東北大学学長職を退任し、すぐさま癌研院長として赴任した。日記に記載が見あたらないのだが、父は生前「癌研のことは殆ど知らないけれども、吉田君がいて二人でやろうじゃないかと呼んでくれるから決めたのだ」と、よく語っていたのが印象深い。

 最後に、この国立がんセンター人事とからんで生じたとされる、吉田先生と武見太郎先生との日本医師会長職を巡る対立についてふれたい。今となっては過去の古い思い出にしか過ぎないかも知れないが、当時はマスコミは興味本位に大きく取り上げた。義父佐々木洋興は、当時の日本医事新報社長の梅沢信二氏、さらに武見先生とも親交があったが、「この事件は武見先生に対する少数の反対勢力に、吉田先生が単に担ぎ出された不幸な結果ではないか」と述懐している。さらに草野球の投手をされた先生に打者として対した時のことを書いている(「人間吉田富三」)が、「先生は何を始めても真剣で、どんな場合でも安易な妥協を許さない、ひたむきな強い方」との印象を強く持ったとのことで、「もしあの場合、双方の妥協で解決できたなら、苦労はなかったはずだ。これも今となっては先生が残された人生訓の一つとして取り上げるべきか」と語っている。先生が医師会長選挙の折りになされた講演記録などから、その医学・医療に対する本当に真摯な態度がはっきりと感じられ、現在の日々の生活にご助言でもいただけたらと今更のように思うし、先生と父のような間柄を本当に羨ましく感ずるのである。

執筆者紹介

昭和14年生、東北大学医学部卒、東北大学抗酸菌病研究所助手、米国NIH客員研究員、国立医薬品食品衛生研究所安全性生物試験研究センター長、佐々木研究所長を経て、現財団法人佐々木研究所理事長