がん研究の基礎を築いた先駆者佐々木隆興博士

                           篠田達明

 佐々木隆興(たかおき)博士と聞いても多くの読者は、はて、どなただろうと首を傾げるかもしれない。 博士は明治期から昭和初期にかけてがんの基礎研究に情熱をもやした臨床医である。昨年の本誌7月号に「吉田肉腫」を発見した吉田富三について述べたが、吉田の師に当たるのが隆興である。 神田駿河台の杏雲堂(きょううんどう)病院長を勤めたので、「ああ、あの由緒ある有名な病院」とうなずく人もいるだろう。

 杏雲堂は隆興の伯父で養祖父に当たる佐々木東洋が興した病院である。かつて明治天皇が脚気を患ったとき、漢方と洋方でどちらの治療法が 優れるか脚気病院を設けて競ったことがあるが、東洋はこのとき腕をふるった洋方の名医だった。

 東洋にはこどもがいなかったので、妹ヒサの次男政吉を養子に貰いうけ後継ぎにした。政吉は大学東校(東大医学部の前身) を優秀な成績で卒業したから官費留学の資格があったが、なにかと束縛のある官費留学を嫌い、私費で5年間のドイツ留学を果たした。

 明治12年(1879)に帰国した政吉はすぐ東京帝大医科の講師に招かれ、明治19年、33歳で内科教授に選ばれた。ところが制約のない環境で 思う存分結核の研究と治療に専念したいと願っていた政吉は明治28年、東大教授を辞職して杏雲堂病院の2代目院長に就任した。 すでに杏雲堂の一隅に土蔵作りの2階建て研究室と動物舎を設けていたから、早速、結核の臨床研究にとりかかった。

 政吉にもこどもがいなかった。そこ東洋の妹タケの子隆興を養子に迎えて後継者にした。隆興は明治35年(1902)、東京帝大医科を卒業したのち、義父と同様、私費でドイツに渡り、生化学や実験病理学を学んで帰国した。大正2年(1913)、36歳のとき、京都帝大第一内科の教授に招かれたが、3年後に京大を辞職して杏雲堂へ帰った。院長に就任した隆興は政吉のつくった研究室を譲りうけ、ここに新しい機材と設備を導人して細菌の化学的変化を追う研究を始めた。隆興が開拓した「細菌化学」の研究はこれまでにない分野だったから注目を浴び、大正13年には「蛋白質と之を構成するアミノ酸の細菌に因る分解とアミノ酸の合成に関する研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞した。

 さらに研究の飛躍をはかった隆興は、昭和4年(1929)、これまでの研究室を改造し、そこに若い研究員の吉田富三を迎えた。 ここで隆興は「化学物貨による臓器と器官の形態学的変化」をテーマにがん研究に取り組んだ。

 この頃発表された外国の医学雑誌に、ある種のヒ素化合物を動物の体内に少量ずつ与えると細胞を活性化させるが、一定量を越えると細胞毒と なって細胞を破壊すると書かれた論文があった。これを読んだ隆興は、もしかするとヒ素化合物にがんを発生させる物質があり、これを肝臓など ヒ素と親和性の強い臓器に作用させるとその臓器細胞をがん化するかもしれないという仮説を立てた。これはあくまでも推測なので、化学物質を 長期間動物に与えてその結果を病理組織的に確かめる必要がある。そこで大学で病理学をおさめた吉田を助手に雇い、ヒ素化合物を動物に長期間投与 して病理学的変化を迫求する実験を行わせた。

 しかし期待した結果は得られなかった。隆興は次に同様な上皮細胞増殖促進作用のあるo-アミノアツオトルオール(OAT)に目を付け吉田に 実験を依頼した。

 吉田はこの根気の要る仕事を忍耐強くつづけ、2年後、ついにOATによりラットの肝臓にがんを発生させることに成功した。隆興が 「化学的形態病理学」と名付けたこの新しい分野の成果に対して昭和11年(1936)、2度目の学士院恩賜賞が与えられた(吉田も同時受賞)。 さらにその4年後、隆興の顕著な業績に対して文化勲章が贈られた。

 隆興は漢洋の書物に精通した博識で奥深い人柄であったが、晩年のかれはさながら仙人を思わせる峻厳な風貌をして静謐な毎日を 過ごしていた。昭和41年5月5日、第88回目の誕生日を迎えた隆興はますます元気だったが、その後、急に脳軟化症の症状がみられるようになり、 同年10月31日に大往生を遂げた。
顕微鏡的細菌学が主流だった明治期に隆興はいち早く生化学的手法を導入して研究の幅を広げ、さらに病理学と生化学を結びつけて実験 腫瘍学という新しい分野を切り開いた功績はいまもって輝いている。なによりも隆興は「研究は臨床と密接に結びつかなければならない」 という強い信念を生涯に渡って貫き通した。

---------------------------------------------------------------------- 篠田達明 しのだたつあき

昭和12年愛知県一宮市生まれ。名古屋大学医学部卒業後、医師として長野日赤病院、名古屋第一日赤病院などに勤務。 のち愛知県心身障害者コロニーこばと学園園長を務める。昭和59年、「にわか産婆・漱石」(新人物往来社)で歴史作家としてデビュー、 以後医学を題材とした歴史小説、エッセイを多数発表している。

*財団法人佐々木研究所のホームページ(http://www.sasaki-foundation.jp/)内の資料室では、隆興による書き物や蔵書目録など、 隆興に関連する資料が多数公開されている。

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歴史ミニ知識


 佐々木東洋(1839~1918)は天保10年6月22日、江戸本所に生まれた。文久2年(1863)、西洋医学所で包帯教授助手を勤め、幕府軍艦 「幡竜」の軍医になった。そのあと大学東校中助教を歴任、さらに佐藤尚中の私立病院博愛社に勤務してから医学校付属病院長を経て神田で 開業した。明治11年(1878)、脚気病院の主任となり、その後、明治14年、杏雲堂病院を設立した。明治20年には東京医会会長として活躍した。 大正7年10月9日没。享年80。


 佐々木隆興(1878~1966)は明治11年5月5日、東京に生まれた。東京帝国大学医科大学を卒業してから同大学隈川宗雄教授のもとで 医化学を専攻する。明治38年(1905)、ドイツのシュトラスブルク大学で生化学を学び、ついでベルリン大学で有機化学や実験病理学を学んで 明治43年(1910)に帰国。大正2年(1913)京都帝国大学医科大学第一内科講座教授となったが、大正5年辞職して杏雲堂病院の3代目院長となり 昭和16年(1941)まで診療に従事した。昭和10年(1935)には財団法人がん研究会がん研究所所長をつとめて結核研究所

所長も歴任し、昭和14年(1939)に財団法人佐々木研究所を設立して所長兼理事長となった。
           (がんサポート 7月号 2005、転載許可済)