Photo Story 先覚者の足跡

「叩きの東洋」の異名をとった打診の名人・佐々木東洋

 昔むかし、中国に薫奉という医者がいた。病気を治しても謝礼をとらなかった。そのかわり、軽症の患者を治したら庭に杏の木を 一本植えた。重症の患者を治したら五本植えた。数年にして杏の木は十万余本となった。『神仙伝』はその様子を「欝然として林を成し、 杏花雲の如く、杏子大いに熟せり」と伝えている。そういう名医になりたいものだという情熱を自らの病院の名にこめて杏雲堂と名づけた 医師がいた。佐々木東洋(1839~1919)がその人である。東洋は杏の木こそ植えなかったが、収益の三割を無料施療券に回し、病気になっても お金がなくて医師にかかれない人のために配布した。東京府医師会の設立にも大いに尽力した東洋の足跡をたどってみたい。

  ●ヒヤリングが苦手だった東洋

 明治維新のとき佐々木東洋は二十九歳になっていた。すでにその四年前に、江戸で代々外科医を名乗ってきた佐々木家の家督を 相続しており、医家として一人立ちしていた。

 明治二年、英医ウィリアム・ウィリスを迎えて医学校兼病院が設立された。同年のうちにこれは大学東校(東大医学部の前身) となるが、東洋は最初はここの学生、ついで教官となった。教官とはいっても学生に教える一方で、ウィリスの生徒という関係である ことはもちろんである。すでに家業を継ぎ、それなりに繁盛もしていた自院を閉めてまで、東校に通うことを承知したのは、そこの設備 ー病室、器械室、手術室などーの斬新さに一驚し、怖れたからだという。

 ウィリスとの関係については次のようなエピソードが残っている。

 東洋がまだ教官になる前の話だが、同僚の桑田衡平とともに、多くの学生が注視する中でウィリスから口答試問をうけた。 問題は「梅毒の症期の区別並びに用薬」というものであった。通訳は当時語学の天才といわれた司馬凌海だったが、のちにウィリスが司馬 に語ったところでは、東洋の答弁は正確明瞭で従来にない成績であるというものであった。

 いうまでもなく佐々木東洋に限らず、幕末から明治の初めにかけて、少しでも進んだ医学をおさめようとする者はオランダ語 が必修だった。次いで英語が短い期間だが必修となり、さらにドイツ語に変わった。

 東洋が初めてオランダ語を学んだのは千葉佐倉の順天堂塾であった。しかし、東洋にはオランダ語の修得は容易なことでは なかったらしい。しばらくして師にあたる佐藤尚中がポンペに学ぶために長崎へ行くことになり、東洋は懇請してその随員の一人になった。 旅費も学費も自弁であったが、果たしてそれだけの価値があったかどうか、結果からみればあまり益はなかったようだ。

 というのは、ポンペの講義は通訳なしで行われ、東洋はほとんど理解できなかったからである。東洋らが長崎についたのが安政六年 (1859)の暮れであり、東洋一人が志をまげて江戸へ戻ったのは文久元年(1861)だが、この二年近く、東洋はほとんど理解できないポンペの オランダ語講義を聞き続けていたわけである。江戸に戻るについて東洋は、今度は一切西洋人にはつかず独力で勉強する決心を固めたという。 文字からならなんとか理解できるという自信があったのだろう。

 ところがおもしろいもので、江戸に戻ってみると、長崎帰りの若先生ということで評判をよび、患者はひきもきらなかった。 患者をみる能力は語学力とは別である。実際、東洋は、幕府の奥医師・林洞海が見放した腸チフスの重症患者を見事に回復させるなど、 早くも名医の評判をたてられることになる。

 そうこうするうちに時代はオランダ語から英語に移り変わっていった。東洋は自院の書生の一人に英語のわかる者がいたことを幸いに、 診療・往診が終わった夜ふけ、その書生から英語を学んだ。

 明治維新を迎え、政府丸抱えの医学校兼病院ができたとき、佐々木東洋がその教官の一人に加えられた所以は、名門順天堂の出身で あること、長崎留学の実績、名医としての評判があったことなどがその理由だが、医学校や病院の政府官僚に順天堂時代の同僚・岩佐純がいた ことも与かって大きな力があった。

  ●お雇い外国人を向こうにまわして

 よく知られているように、明治政府は最初ウィルスを中心としてイギリス医学を医学教育の中心に据えようとしていたが、相良知安や 岩佐純などの奮闘によってドイツ医学に急拠、方向転換した。ウィルスは在任九ヶ月で東校を辞職し(明冶二年十月)、二ヵ月後の十二月、 東洋をはじめ相良、岩佐らの師である佐藤尚中が教授陣の最高位である大博士に就任した。

 ウィリスに変わるドイツ人医師ミュルレルとホフマンの到着は遅れに遅れて明治四年八月であった。佐藤尚中は病室を二つに分け、 内科はホフマンが担当し、そのもとに医長として佐々木東洋を配した。外科はミュルレルのもとに宮下慎道を医長にすえた。尚中はかつて東洋を 引きつれて長崎留学した際、彼がいかにポンペの講述するオランダ語を解しなかったか知り尽くしていたわけだが、東洋のその後の研鑚によって 彼の実力が抜きんでていたかをも知っていたわけである。後年(明治八年)のことだが、尚中が喀血で倒れ重症に陥ったとき、尚中は佐々木東洋に 治療を一任している。東洋は文字どおり尚中にとって高弟中の高弟だったわけである。

 当時のホフマン教授の臨床講義は東洋医長が責任者となって患者の病歴症状書を整え医員とともに待っている中、通訳官の先導で入室 するというものであった。

 さて、ある日の死体解剖の実習で、東洋はホフマン先生に「死体を解剖する前に、打診で心臓や肝臓の境をしるしして、解剖して見せ ていただきたい」と申し出た。ホフマンはニッコリ笑って、よろしいと答え、その通りにしてみせた。結果は打診とまったく符合したので、 東洋医長も学生もその能力にあらためて驚いた。

 だが、ホフマンはこの一件を東洋が自分の技術をテストしたのだと邪推したらしい。それ以後、ホフマンはことあるごとに患者を前に して東洋の所見を意地悪く問うた。打診・聴診で患者の病状を診断せよとのなかば命令だったらしい。そして、その打診になれぬ東洋が診断を 誤ると厳しく問いつめることがしばしばだった。

 そういう“事件”が続いて、東洋は本気になって打診、聴診を勉強しはじめた。院内の患者や死体はもちろんのこと、帰宅後も自分や夫人、 使用人などの胸を借りては実習して腕をあげていった。たまたま、老女が瀕死の状態でかつぎこまれたとき、ホフマンはまず東洋の所見を問うた。 東洋は心臓肥大と診断したが、ホフマンは逆に心臓は縮小していると反対意見を述べた。このとき東洋は、この患者は死後解剖できると伝えると (もちろん通訳をとおしてだが)、ホフマンは前言を改め、東洋の診断を認めたという。

 ホフマン教授のいやがらせに端を発した東洋の打診・聴診の技能は、それから一年後には『診法要略』という著作に結晶した。 打診・聴診の医書としては日本初である。院内はもちろん、東京の医者仲間から“叩きの東洋”という異名をもらったのはこの頃からである。

 お雇い外国人に対する東洋の激しい闘争心はその後も変わることはなかったらしい。東洋は明治六年、師の佐藤尚中が大学を辞職 するのに従ってそこをやめ、やがて開業するのだが、間もなく新設の東京府立病院の副院長になった。院長はこの仕事を最初にすすめてくれた 岩佐純だったが、ここに雇われた二十六歳の若き米医アッシミードと患者の診断をめぐって対立した。その入院患者は結核性肋膜炎で左胸に 多量の滲出液があった。いや、あったと最初に診断したのは東洋で、それ故に家族には予後の良くないことを伝えた。アッシミードはその反対で 楽観できると家族に告げた。家族はどちらが本当かと二人に迫ったらしい。東洋はアッシミード立ち会いのもとで患者の胸に穿刺し、滲出液を とりだしてみせた。明らかに東洋の診断が正しかったのである。

  面子をつぶされたアッシミードは府知事に苦情を述べ、ために東洋は事情を説明したのちあっさりと辞職した。これが明治七年の ことだから、副院長に就任して間もなくというあわただしさだった。

 東洋の自信と潔癖性は表裏一体のもので、府立病院をやめてすぐ就任させられた大学病院(大学東校の)院長も二年後にはすっぱり 後進に道をゆずっている。この院長就任については、佐藤尚中の辞職後患者が激減し、学生の臨床講義にもさしつかえるようになっていたという 事情があった。東洋の説得役は長与専斎文部省医務局長であったが、国辞する東洋を動かすにあたって、長与は父・震沢まで動かした。

●杏雲堂創設の経緯

 大病院院長を二年で辞める(明治九年)直前東洋は駿河台に居をかまえ、辞職後は佐々木塾を開いた。医院兼塾である。代診一人、 門人七人で外来患者は一日五、六十人、薬取り百人程度だったという(門人笹川純一の手記)。以前は賑やかな商人町蛎殻町に開業していたのだが、 狐や狸がすみついていたといわれるこの旧旗本屋敷に移ったのは、すでに大学東校に通っていた養子政吉(のちの二代目杏雲堂院長)の健康が 優れず、“転地寮養”の意味もあった。

 佐々木塾は、のちに杏雲堂に発展する母体であったが、そうなるまでにはいかにも東洋らしい経緯があった。世にいう、いわゆる “脚気相撲”といわれる脚気施療院での経緯である。

 西南戦争も終わった明治十一年の夏、東洋は長与専斎内務省衛生局長を訪ねた。話題は天皇の浮腫性脚気に及んだ。西洋に脚気なく そのために療法も知らぬだろうという憶測から天皇の脚気を西洋人の侍医に見せていない。かといって、当時、脚気専門医として評判を とっていた漢方医遠田澄庵が宣伝している秘薬についても、遠田がそのために財をなしていたためかえって真実味に欠ける、という事情から どうしたものか困っているというのが長与の話であった。

 東洋は脚気でも西洋医学で治せないはずはないとしながらも、三年を一期として、西洋医と漢方医それぞれに脚気を治させてみて、 成績のいい方を選べばよいと提案した。

 東洋の提案は数ヶ月後に脚気施療院の設立となって実を結んだ。漢方医からは遠田澄庵、今村了庵、西洋医からは東洋と小林恒が出場した。 一人で二十五人ほどの脚気患者を受けもったらしい。遠田は最初の診察で予後不良と診断した患者は家風として病室へ入れないという態度にでたが 、東洋はそういう重症患者も引き受けて最初の年に八人中五人までを全快させた。その一事でもわかるように二年ほどの間に明らかに西洋医の 治療法に軍配があがり、三年目に入らずしてこの病院は閉鎖となった。

 東洋の療法の基本は助手の佐々木秀一の『備忘録』によれば、小豆食と一日に牛乳二、三合を与えることだったという。

 しかし東洋は西洋医の成績が漢方医にくらべて好いということだけでは満足しなかった、もともと三年を一期とする考えであったから、 脚気施寮院の患者を引き取ってみることにした。佐々木塾には入院施設がなかったので、その向かい側(現在の佐々木研究所。ちなみにいえば 杏雲堂はこの研究所の附属病院となっている)に二階建て二十室の病棟を建て、杏雲堂医院と命名したのである。明治十四年、東洋四十二歳 であった。

 佐々木東洋は杏雲堂医院の院長を十六年つとめ、明治三十年、六十歳で引退している。その直前に医院の拡張を行い、その結果は 病室一等十二、二等二十四、三等三十、隔離病室四、施療病床十五となった。井戸水をタンクにあげて私設簡易水道をつくったり、院長室と 医員室との間に通語器を備えたり(電話は当時まだなかった)最新設備を誇った。

 かつての“叩きの東洋”は、その卓抜な打診・聴診と綿密な治療で“肺病医者”の異名を広く世間に印象づけた。ために杏雲堂の患者は 大部分が結核であったという。

 地位も財産もある人士の家へ往診にでかけて長く待たされるとさっさと帰ってしまったり、入院患者が食事に文句をいえばそれならば 料亭にいくがよかろうと、これまた有無をいわせず退院させたり、患者が問わず語りにこれまでに渡り歩いた名医の名をいくつかあげると 「ワシには治せんから帰れ」と追いかえしたり、とかく東洋には人間臭いエピソードが多い。

 しかし、そういう思いきった態度で患者に接しられたのも、「嗜好を斥けて以て其の業を専らにす」とする精神を文字どおり実行してきた 自信からであったろう。

 特筆すべきは、東洋がその「医は仁術」なりの実践の仕方である。すなわち、収益の三割を慈善に用いると宣言し、実行したのである。

 具体的には基金五万円をつくり、その銀行利子二千五百円で無料入院・治療を行った。入院は十五名を限度にしたが、神田区( 今の千代田区の一部)に二年以上住み、衣食困窮者で、区役所か警察署の証明書があれば誰でも受け入れた。また、毎月三百回分の無料施療券を 発行して区役所に渡した。その施療券は巡査の手を通じて治寮を必要とする貧しい病人の手に渡されたという。

 東洋は杏雲堂医院を設立した頃から仏教にのめりこんでいき、曹洞宗青松寺の北野玄峰師に師事した。一時は仏法気狂いとさえいわれたが、 仏教への信仰が医は仁術なりの思想に磨きをかけたといえばいえなくもないだろう。

 引退後の佐々木東洋は熱海の別荘で悠々自適の生活を送るが、その当時つくった句に「紫の雲の迎えはよけれどもおそく頼むよ  南無阿弥陀仏」がある。実際、お迎えは当時としては相当に遅く、大正七年、八十歳の高齢で大往生をとげた。

           (EHICS OF MEDICINE 10月号 昭和61年)